誕生は1987年 教団・オウム真理教とは

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【松本智津夫死刑囚ら死刑執行 オウム真理教とは】
オウム真理教は1987年、ヨガサークルを運営していた松本死刑囚が立ち上げた。松本死刑囚は“麻原彰晃”を名乗って教祖となり、2年後、宗教法人の認証を受けた。
自らを「シヴァ神とコンタクトを取ることができる」とした松本死刑囚は信者らに「グル」や「尊師」と呼ばれ、求心力を高めた。東京大学といった有名大学で講演するなど高学歴の若者たちを重視した勧誘を行い、信者には弁護士や医師などのエリート層も多かった。
オウム真理教は、独特の修行法を取り入れていた。オカルト雑誌に掲載された当時の松本死刑囚の写真は「蓮華座(れんげざ)」と呼ばれる座り方で上に飛び上がっているように見える。これは「空中浮揚」と呼ばれ、「修行すれば誰でもできる」と説いていた。
また、「ヘッドギア」と呼ばれる松本死刑囚の脳波を受信できるとされる機具を頭に取り付けた信者もいた。
■教団めぐるトラブルが相次ぐ
しかし、修行中に信者が死亡する事故などもあり、次第に教団をめぐるトラブルが相次ぐようになる。
1989年11月、教団のトラブルを調査していた横浜の坂本弁護士の一家が失踪。現場に「プルシャ」と呼ばれるオウム真理教のバッジが落ちていたことから、教団の関与が疑われた。
当時、松本死刑囚は「オウム真理教としては一切関係ない」「オウム真理教に対して、いろいろな疑惑がある」などと語っていた。
一家が遺体で見つかったこの事件の犯行は、松本死刑囚の指示で行われた。「今、ポアしなければならない人物は誰だと思う?」―松本死刑囚は、教団独自の表現で殺人を意味する“ポア”という言葉で、信者らに殺害を指示したという。
■選挙に出馬も、落選
事件への関与が疑われる中、松本死刑囚は突然「真理党」を結成し、1990年、信者らとともに衆議院議員選挙に出馬。派手なパフォーマンスで選挙戦を繰り広げたが、全員落選した。
松本死刑囚は「国家権力が票のすり替えを行っている」と敗因を語り、社会への敵視を強めた。
■急速に進んだ「武装化」
この頃から教団の「武装化」は急速に進み、ロシアからヘリコプターや自動小銃を購入、銃の密造などを計画する。
そして、山梨県旧上九一色村に建設した「サティアン」と呼ばれる巨大な施設で、猛毒「サリン」の製造を始める。
1994年6月、長野県松本市の住宅街にサリンをまき、住民ら8人が死亡。オウム真理教をめぐる裁判を担当していた裁判官が住む官舎の近くで、サリンの威力を確かめるために起こした事件だった。
1995年には、信者の兄だった目黒公証役場の事務長・仮谷清志さんを拉致、麻酔薬を大量に投与して死亡させた。
■1995年3月20日の地下鉄で
そして、1995年3月20日、通勤ラッシュ時間帯の東京の地下鉄でサリンをまき、多くの犠牲者を生んだ「地下鉄サリン事件」を起こした。13人が死亡、6300人以上が重軽傷を負った未曾有の“無差別テロ事件”は、松本死刑囚を頂点としたオウム真理教によるものだった。
一連のオウム事件で命を落とした人は、29人にも上る。多くの信者が犯行に加わり、6人に無期懲役の判決、松本死刑囚を含め13人に死刑判決が下された。