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※ 視聴回数は1日1回更新されます。菅直人元首相が東日本大震災から丸10年となる2021年3月11日、東京・渋谷で行われた映画『太陽の蓋』のトークイベントに登場した。
2016年に公開された同作は、3・11東日本大震災、福島原発事故から10年目の今、多くの報告書や資料を詳細に分析、事故対応の当事者であった政治家や閣僚に直接取材し、汚染の残る福島で撮影を行った映画。事故当時の政治家をすべて実名で登場させ、錯そうする情報の中、極限の緊張状態を生き抜いた当事者たちのドラマを描く。
菅氏は「きょうが、ちょうど10年目に当たります。10年前のきょう、2時46分、参議院の決算委員会というところにおりましたら、揺れ始めました。そこからスタートでした。当初は地震、津波と思っていたのですが、福島第一原発。いろんなことがありました」と述懐する。
「私にとっての最大の決断は3月15日に清水東電社長が経産大臣を通して『現場が非常に厳しい状況なので職員を撤退させたい』と話してきた。頭の中では、そういうことが起きることも想定していたんですが、しかし原発は特殊な装置。専門家がいなかったら手が出ない。それに対して『撤退はありえませんよ』と言った」と明かした。その後、東電本店に乗り込み、政府と東電の統合対策本部を設置。「今考えても、そのところが1つの転換期になった」と振り返りながら「うまくいった面と、よくここで止まってくれたといういくつかの偶然を含めて、神の御加護があった」とした。
また、発生から翌日の12日早朝。菅氏はヘリコプターで福島第一原発に向かった。「端的に言うと東電から情報が入ってこなかった。私の目の前には、重要な方がそろっているはずなのに、とにかく情報が届いてこない」と当時の状況を説明。原発が入っている格納容器の蒸気を強制的に排出して圧力を下げるベントという作業を緊急で行う報告を受けた。「了解しても、3時間経っても、4時間経ってもやったという報告が来ない。目の前にいる東電の副社長に『あれだけ急いでやらないとと言ったのに、なぜやらないんですか?』と聞いたら『わかりません』と言われた。『わかりません』が1番、怖いんです。これはダメだと思って、ヘリコプターで現地に行きました」と経緯を口にする。
そこで、吉田昌郎所長と対面。「彼は非常にはっきりものを言う人でした。『普通だったらスイッチ1つでできるけど、電源がないから人間がやらないといけない。しかし、放射線量が高くなっているから、なかなか大変。最後は決死隊を作ってでもやります』と言ってくれたので、私は『わかりました。頑張ってください』と言って離れた」と振り返っていた。
今後、どういった形で処理すべきか。菅氏は「人々が戻れるかという問題と、原発そのものがどうなるのかという問題があります」とする。「ある程度の方が戻っておられますが、比較的高齢者の方が戻る。子どもさんを連れた方は、なかなか戻っていません」と現状を語る。建物などの復興は進むが、仕事などの面では戻っていない状況を口にしていた。
そして「原発そのものの問題でいうと、事故があったあと私はチェルノブイリとか他の原発事故の場所を見てきました」という。「チェルノブイリは35年ぐらい経ちましたけど、これからどうするのか聞いたら『外に放射能が漏れないようにして少なくとも100年は状況を見る』と。日本の場合は、チェルノブイリより激しい事故。燃料のメルトスルーしたものが、他の金属とぐちゃぐちゃに混ざってたまっている。それを取り出して、どこかに移すのは極めて難しいと思う。最終的なという意味がどういう形になるかわかりませんが、最終的な処理が数10年という単位を超えて1世紀単位で時間が掛からざるを得ないだろうというのが私の見通しです」と語っていた。