相沢忠洋記念館、妻が伝える岩宿への道

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納豆の行商をしながら、旧石器時代が日本に存在したことを実証した在野の考古学者がいた。だが、学歴がなくて中傷され、功績は十分には評価されなかったとされる。その記念館は、最後に発見した遺跡があるナラの雑木林の中にひっそりとたたずむ。
 相沢忠洋(あいざわただひろ)(1926~89)は戦後まもない頃、行商をしながら岩宿(いわじゅく)(群馬県みどり市笠懸町阿左美)の関東ローム層で石片を見つけ、通うこと約3年。追究と信念の末に49年、23歳で誰が見てもわかる黒曜石の槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)(長さ7センチ×幅3センチほど)を手にした。それまでの日本史の定説を覆す発見だった。
 「私にはその美しさが神秘的に思える」「赤城山麓(さんろく)に、火山灰の関東ロームの堆積(たいせき)時代に、すでに人類の祖先が住んでいた。しかし、その祖先はまだ土器を知らない、石器だけで生きていた!」(著書「『岩宿』の発見」から)。
 群馬県桐生市新里町奥沢にある相沢忠洋記念館は、相沢が生前、自宅兼研究所とした場所だ。自転車での行商。赤土の崖と向き合う姿。室内に写真約50点が並び、妻で館長の千恵子さん(84)が「岩宿への道」を伝えている。「物静かな努力家で子煩悩でした」
 千恵子さんの話や著書などによると、相沢は鎌倉で過ごした幼い頃に両親が離婚。父親と桐生に移ってすぐ浅草へ奉公に出され、履物屋で働きながら夜学の小学校へ。孤独な少年時代から一家だんらんにあこがれ、黎明(れいめい)期の祖先のぬくもりを探すことにつながった。戦後は行商をしながら赤城山麓の遺跡を息長く調べた。著書「赤土への執念」でこう表現する。
 春、その山を眺め、
 夏、その山を歩き、
 秋、その山の土をなめ、
 冬、その山を掘った。
 千恵子さんは77年、先妻に先立たれた相沢と結婚した。発掘や講演会を手伝っていた千恵子さんに、先妻の主治医が「相沢はこれから世に出る男だから伴侶が必要だ」と結婚を勧めたのがきっかけだ。相沢は10歳年上で、行商と講演料による経済的に苦しい生活。先妻との間に3人の子がいた。千恵子さんは周囲の猛反対の中、快諾した。「お金はなくても石器がある。いばらの道でも面白そう」
 記念館によると、最後となる21カ所目に発見した夏井戸遺跡の中に居を構えて間もなく、相沢は脳内出血で倒れ、6年余の闘病の末に62歳で亡くなった。結婚生活はわずか12年。「発掘を手伝い、看病もでき、悔いはない」と千恵子さん。
 相沢の死去から2年後の91年、記念館を開いた。いまも全国から考古学ファンが訪れる。「中学時代に相沢さんと話したら、大人扱いしてくれました」という声を今も聞くという。
 73年に出版した著書「『岩宿』の発見」(講談社)は2019年には第39刷が出るロングセラーに。その読者が多く、千恵子さんはうれしい。「相沢の努力が認められた。今後も相沢の名と、一家だんらんを大切にする思いを伝えたい」(張春穎)
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 相沢忠洋記念館 群馬県桐生市新里町奥沢537。東武桐生線赤城駅からタクシーで約10分。北関東道太田藪塚インターチェンジから約30分。槍先形尖頭器など石器600点や愛用の自転車、生原稿などの所蔵品は現在、記念館から7キロ南の岩宿遺跡近くのみどり市岩宿博物館に貸し出し中。記念館は事前連絡で見学可能。入館は午前10時~午後5時、月曜休館。電話(0277・74・3342)。高校生以上500円、小中学生250円。