海だけが知る…かつて特攻隊基地だった学校

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爆弾を抱えた飛行機もろとも敵艦に体当たりする捨て身の“特別攻撃”。
元海軍技術大尉・中原治夫さん「こんな立派な青年がもう間もなく死んでいくんだなぁ…と」
近くに住んでいた峰久光正さん「誰っちゃ知らんのや。ここで200人も300人も戦死したのを知らんのや」
香川県三豊市詫間町、ここに太平洋戦争末期、特攻隊の若者たちが飛び立った滑走路が今も残されています。特攻隊の基地があった場所は、その後学校に…国立香川高専・詫間キャンパスです。特攻基地だった歴史はほとんど語り継がれていません。
重信隆丸さん、23歳。飛び立った際、家族への遺書を空中から投げました。
重信さんの遺書「兄さんが晴れの体当たりをしたと聞いても何もしんみりするんじゃないよ。兄さんは笑っていくんだ!」
昭和18年、詫間海軍航空隊が作られ、水上偵察機の訓練のために全国からたくさんの若者が集められました。
香川県観音寺市に住む矢野幸さん。15歳年上で、東京の大学に進学した兄がいました。久しぶりに“実家に帰る”と連絡が…。家族は食事の支度をして待ちましたが、兄は帰らぬまま飛び立ったのです。遺書が残されていました。
兄・弘一さんの遺書「幸も小さな大和撫子です。伸々と純真溌溂に大きくなって下さい。兄さんの代りに父上母上にしっかり孝行を尽くしてください。唯一つの兄さんのお願ひです」(原文ママ)
幸さん「特攻隊で飛びました…と。親としたら特攻隊というのも知らなかった」
みな10代から20代前半の若者。戦況が悪化する中、水上偵察機で敵艦に向かっていき、多くの若者が命を落としました。